2013年12月に競技生活を卒業された寺川綾さん。競技活動を支えられたミズノスイムチーム緒方茂生監督、水着開発の責任者であるグローバルアパレルプロダクト本部松崎健専任次長とともにその競技生活を振り返っていただきました。

北京オリンピック出場を逃した後のチーム合宿がなかったら、水泳に戻るきっかけが無かったと思います。

── ミズノとの出会いは?

寺川  実は3歳で初めてプールに入った時から今までずっとミズノの水着です。スイミングスクール、学校ともにミズノと関係があったからです。ですから25年のお付き合いになります。その時から、中学、高校、大学そして今でも、練習も試合もずっとミズノの水着です。

── なぜミズノに入社されたのですか?

寺川  現役スイマーを続けるという前提で大学側から就職の候補をいくつか挙げていただいていたのですが、その中にはミズノは入っていなかったのです。私としては水泳ができればいいという思いのなかで、大学側は水泳以外のことも考えて勧めてくれたのですが、泳ぐこととその環境を第一に考えてミズノに入社しました。

── 入社してすぐにミズノスイムチームが発足したのですね?

緒方  オリジナルメンバー6人、その中で女性は寺川さん一人という形でスタートしました。そして現在、唯一チームに残ってるのが寺川さんです。

── 入社翌年の2008年、北京オリンピックがありました。代表入りを逃したのですが・・

寺川  正直、代表に落ちたとわかった時には、もう会社を辞めないといけないなと思いました。社員としてミズノに居るのにオリンピックに行けなかったということは、会社にとって私が居るメリットが何もないのですから。

── その時緒方監督はどのように声をかけられたのですか?

緒方  3番手で代表漏れだったのですが、自己ベストは出していたのですよ。ですから私たちは温かい目で見てあげたいと思いました。スイムチームの部長からは「次に進めるステップを踏め。何か前に進む事を考えろ」と背中を押していただきました。選手にとって大変悲しいときですからね。「頑張ろう」なんていう話をされても困るだろうなと思いまして、苦肉の策じゃないですけど、その時に私の口から出た言葉が「みんなで合宿しようぜ」でした。会社からもバックアップをいただき、5月の連休が終わってすぐにチームとして初めての合宿を沖縄で行ないました。
合宿にはオリンピック出場の決まっている2人の選手も来てくれました。2人はオリンピックに向けてのステップが始まっている、一方落選した選手はモチベーションが落ちているのですが、代表の2人のためのサポートをしなければという意識はあったのでしょうね。ビックリするくらい一所懸命練習を頑張るのですよ。

寺川  2人のモチベーションをチームメイトの私たちが下げるようなことはしてはいけないと思いました。けど、まあ練習きつすぎて監督のことを鬼だと思いました。

緒方  私は、2人以外は日本選手権以降ほとんど泳いでいない事を知っていましたから、出来る範囲で頑張ってほしいと言いました。ただ水の中に入ると闘争心が出るのか、黙々と練習をこなすのですよ。そのやり遂げる力がすごいなと思いました。そうしてチームがひとつになって代表2人を送り出そうという気持ちになりました。本当に良い合宿が出来たなと思いました。

── 寺川さんにとってどんな合宿でしたか?

寺川  多分その合宿がなかったら泳ぎを始めるきっかけが無かったので、すごくチームに救われました。

自分が本当に良いと思う水着でないと他の人に勧めることが出来ない。
開発にはそんな思いで取り組んでいます。

── 選手としての活動の他に、ミズノ社員として水着の開発に関わられているということですが、どのような仕事になるのですか?

寺川  社以前は、売り出される前の水着を着る機会なんてほとんど無いですよね。入社してからは、製品として完成する前の段階から着せていただいて。いろいろ思った事を言わせていただきました。そうして出来上がった水着は、私たちだけでなくいろんな人が着る水着だから、思った事は素直にそのまま伝えました。

松崎  そうですね。入社する前は、出来上がった水着を着てもらってサイズをフィッティングするという形で寺川さん用に最終仕上げるというスタイルでした。入社されてからは、プロトタイプの段階で着ていただいて、意見をいただき修正すべき点を修正するという形で開発に関わってもらっています。

── 2008年シーズンの水着からは、さらに深く開発に関わっていかれたのですね?

松崎  ミズノブランドが立ち上がって間もない時期でしたので、何か新しいモノを提案したいという思いがありました。特に日本選手は泳ぐ感覚を大事にされるので「動きやすさを一番に考えた水着」というコンセプトを作りました。それを実現するために寺川さんに協力していただきました。全身をスキャンしてデータを取り、さらにそこから等身大のマネキンを作り流水実験を行うといった流れで開発を進めました。

── そうして出来上がった水着は違いましたか?

寺川  以前は、新しい水着を着ると確実にあっちが痛い、こっちが痛い、ここがイヤだとか言っていました。特に私はうるさい方なのですが、肩の辺りとか、お腹の所がユルいとかキツいとか、着づらいとか言っていましたね。この時はそれがほとんどなかったですね。

松崎  いろんな選手にヒヤリングを行なうのですが、たくさん意見を言ってくれる選手とあまり言ってくれない選手がいます。社員という立場もあるからかもしれないですが、寺川さんは「肩のストラップが食い込むと、肩の可動域が狭くなるので嫌だ」というふうに、私たち技術者にわかりやすい言葉でフィードバックしていただいたと思います。

── そういう時は、仕事だという意識は働くのですか?

寺川  やはり水着を着て泳ぐと、選手としての意見になります。しかしミズノに所属している訳ですから、自分たちが着てなんかイヤだなと思う水着を人に勧めることはできないじゃないですか。自分たちが自信を持って良い水着だと思える水着が出来ないとダメだと思ったので、嫌なところはきっちり伝えました。松崎さんには相当酷いことを言ったのではないかなと思います。

── 北京オリンピック後に、本格的に高速水着の開発に取り組まれたのですね?

松崎  開発に際して、スイムチームの皆さんに大変協力していただきました。この時には週1回のペースでサンプルを作っていたので、緒方監督に選手のスケジュール調整をしていただき、毎週水着を着て泳いで評価していただきたいとお願いしました。特に寺川選手には、毎週プロトタイプを着て全力で泳いでもらうという無茶なリクエストをしていました。

── 監督として選手にそんな無茶をさせる事は出来ないと思われましたか?

緒方  正直そういう思いがありました。しかし、選手のテストが必要であるという事が解っていましたので、選手には申し訳ないですがここで頑張ってもらわないと良い水着が出来上がらないという気持ちでした。選手達もその思いを解ってくれていたので、何も言わずに頑張ってくれたのだと思います。
休まなければならない時にテストが入ると言った具合で、調整が大変だったと思います。

── 選手としては調整上の不安がありましたか?

寺川  調整の不安はなかったのですが、とにかく体力的に大変でした。

緒方  練習のスケジュールとは別に、テストとして全力で泳ぐのですから大変だったと思います。しかし、水着の開発に関わっている選手、技術者すべての人が「良い水着を作りたい」と思いがひとつだったので、頑張れたのだと思います。誰か一人が欠けても、誰か一人でも文句を言う人がいたなら成し遂げられなかったと思います。
今では懐かしい話ですが、当時はとにかく必死でしたね。

松崎  約4ヵ月の間、開発にかかわるすべての人間が全力で仕事しました。

精一杯トレーニングをして望む大きな大会の決勝レースでは自己ベストを出すことが自分自身に対する最低条件でした。

── 3種目制覇されたのですね。これ以降もかなり自己ベストを更新されているのですが、何回くらい更新されたのですか?

寺川  回数は覚えてないですが、決勝のレースでベストじゃない時の方が少なかったと思います。ほんのちょっとずつですけど。トレーニングをして準備をして大きな大会に出て行くので、やはり最低条件が自己ベストでした。自分がトレーニングして強化されているという事と水着が進化しているという事が合わさって自己ベストが出るという感じですね。

── その時に水着の力というものはあるのですか?

寺川  それは、やはりあります。

── 水着を大切だなと感じだしたのはいつですか?

寺川  会社に入ってからですね。
高速水着の時代は、水着が急に変わってしまって、水着に対して泳ぎを変えないといけなかったり、レース展開を今までと違うモノにしないといけなかったりして、自分中心でプラス水着ではなく、水着中心で自分がそれに合わせないといけないという感じだったので大変でした。自分の泳ぎがあって水着があるではなく水着がまずあってそれに合わせた泳ぎが要求される時代だったのです。
その速さにはビックリしましたけど、水着に選手が泳がされているみたいな感じで本当の水泳ではなくなったようなに思いました。

ロンドンオリンピックのとき水着に対する不安は一切無かったですね。

── 高速水着禁止後の水着とは?

松崎  基本的な水着の設計の考え方「どこをどう締めれば選手はどう感じるか、フォームが安定するか」など、ノウハウは蓄積されていたのです。
高速水着以降は素材を開発しながら、どのように組み合わせれば良い水着が出来のか試行錯誤することが開発の手法となっています。一度で100%選手の要望に答える事が出来れば良いのですが、新たに作った水着が必ず進歩するというものではなく、ある所が良くなればある所が悪くなると言った感じ一進一退を繰り返しながら僅かずつ進化させていくのです。
2012年ロンドンオリンピックを迎えるにあたり、姿勢維持と動きやすさ、そしていかに着やすくしながら、選手の求める締め付け感を出すことが課題でした。ロンドンの時はある程度改善できたのではと、私たち技術陣は感じていました。

── ロンドンオリンピックの時、寺川さんは水着に関してどう感じましたか?

寺川  水着に対して、一切不安はなかったと思います。毎年夏に着る水着は、私の中でベストの水着と感じていました。

── チームの一員として寺川さんに求めたものは何ですか?

緒方  いちばん近いところにいるが故にあまり多くは求めませんでした。ただ寺川さんには無言のプレッシャーを与えていましたね。平井先生のもとでしっかりと目標を持って取り組んでいたので、私から言う事は何も無かってですね。入社してすぐは、日本ランキング3位というのが定位置でなかなか代表になれないという状態でした。これをなんとか打破してほしいと思っていました。
転機が訪れたのが平井先生の門を叩いて頑張りたいと言い出した時に、応援してあげないといけないと思いました。その時に唯一言ったのは、ここが最後と思って頑張ってほしいので弱音を絶対吐いてほしくないということでした。期待通りにその後一切弱音を吐かずにつらい練習を続けて、着実に成長していったと思います。高速水着時代の後も記録を伸ばしていってくれました。
そしてロンドンで目標を達成したのだと思います。

── 現役引退後の今もミズノスイムチームの一員だということですが、ミズノスイムチームとはどんな存在なのですか?

寺川  普段は一緒に練習している訳でもなく、大会の時に会うのですが、何か大きいのですよ、私のなかでスイムチームは。何かあったときも一番に相談できるのはスイムチームの仲間だったりしたので、会社に入ってチームが無ければ、例の5月の合宿も無かったと思いますし。いろんな部分で助けられて、種目も違うし練習場所も違うのに、みんな助け合いながらやっていくので、特に実業団チームのなかでもミズノスイムチームはチーム意識、仲間意識が高いと思います。

── 大学のチームとも違うのですか?

寺川  やはり結果を残さないとチームに留まる事が出来ないとみんな考えて危機感を持っているのですよ。でもチームが出来た当初から、2人の選手が代表に入ってオリンピックにも出てという感じで刺激もあり、いろんな事を勉強させてもらえる場でもあり、なんか帰る場所があるという感じですね。大きな存在ですね。これからもスイムチームの一員としてチームを盛り上げ、水泳を盛り上げていきたいですね。

── これからもミズノスイムチームに期待していいですね。

緒方  第2第3の寺川さんレベルの選手を応援していきたいですし、2020年東京オリンピックで一人でも多くの選手がミズノスイムチームから代表入りして、表彰台に上ることができるように応援・サポートしていきたいですね。現在、選手の人も出来る限り頑張り続ければ、その舞台に立てるのではないかと思いますので、会社としてもサポートしていきたいですね。こんなに心強いお姉さんがサポートをしてくれるというのは他のチームには無い大きな力だと思います。普通、現役を退かれるとチームも去られる方が多いのですが、こうやってチームに残っていただけるので、選手にすれば非常に心強い先輩でありますし、これから入りたいなと思っている人たちにもたくさんいるのではと思います。

水泳は生涯続けることのできるスポーツ。ぜひ泳ぐ楽しさを知ってもらいたいと思います。

── 子ども達にメッセージをお願いします。

寺川  私は3歳から水泳を初めて約26年間選手として頑張らせていただきました。水泳はこれからも続けられる競技だと思うので、ぜひ小さな子供達にも水泳を始めて泳ぐ楽しさを知ってもらいたいと思います。
そしてできれば2020年には東京オリンピックがあるので目標を持って、夢を持って、頑張って楽しみながらしてほしいと思います。